レーデルオガワについて

レーデルオガワは、創業1971年に始まったコードバン専門のフィニッシャーです。
革業界でも珍しいとされるこの会社は、ある少年とブーツの出会いから始まりました。

レーデルオガワ創業者 小川三郎
「革にすべてを捧げた男、小川三郎の人生」

1929年、京都に生まれた三郎は幼いころから革の魅力に惹かれていた。
その熱意は凄まじく、親の反対を押し切って「京都帝国大学 農学部皮革製造学科」に忍び込んでは革の研究に没頭していた、その時に訪れる2つの出会いが起業のきっかけになるのです。

大学に出入りするようになってから数カ月、三郎は皮革製造課での努力が認められ、当時学科の担当であった井上教授から受講生として正式な入学が認められる事になる。
この人との出会いが運命を大きく変える。

教授助手の地位にまで昇り詰め、研究にのめり込んでいたある日、日本軍の将校が大学視察に訪れた。そして、その将校が履いていた靴こそがコードバンで作られたブーツだったのである。
牛でもなく、山羊でもない、コードバンが放つ異質な光沢を目にした三郎は一瞬にして心を奪われたと言う。その時、研究所の同期に「おれは将来コードバンで食べていく」そう言い放った瞬間から、彼の志は生涯揺らぐことはなかった。

 

大学を卒業後、三郎は井上教授から「東京へ出てこないか」という誘いを受ける。
研究所で培った知識を元手に上京した三郎は、教授の兄弟が経営するタンナーへ就職し、毛皮や爬虫類などのエキゾチックレザーから牛革まで幅広い仕事をこなしながら、当時ではとても貴重とされていたコードバンをどこからか仕入れては、密かに研究を続ける日々を送っていた。

上京から数年後、東新という会社からヘッドハンティングされた三郎は引き抜きを受け入れ、工場長取締役に就任、そしてついにコードバンを定期的に入手出来るようになるのである。
当時コードバンを買い付けていたのは成田にあった馬肉輸入会社「コルドバ吉田」という会社で、墨田区にタンナーを構えタンニンを使ったピット槽鞣しで馬革の鞣しを行っていた。コルドバ吉田はその数年後、経営者が不慮の事故により引退しコードバンの製造を終了している。

 

東新でコードバンの染色を研究し、ランドセルなどに代表される塗料染めを確立した三郎は、1971年 自分の理想を叶えるため独立を決意する。
東京にあったとある染色工場の一角を間借りして「オガワ染工所」を創業した三郎は、このときからコードバン専門の染色業者だった。
オガワ染工所では染色請負の工賃業を営んでおり、「東新」及び「東光商会」という会社から塗料染めのランドセル用コードバンを受注していたが、実はこの仕事で使用していたコードバンは新喜皮革が鞣した革であった。
当時、ほぼ関わり合いの無かった2社だが、歴史を辿るとかなり昔から繋がりがあった事になる。

 

1974年、会社の経営が軌道に乗り出した矢先のことだった。
間借りしていた工場が火災により全焼、設備などがすべて焼失する。

 

不運に見舞われた三郎だったが、彼は立ち止まることを知らなかった。
無謀にも多額の借金を作り、自宅近くの土地を購入し即座に新工場を建ててしまったのである。
その時に社名を「有限会社レーデルオガワ」に変更し再出発したのです。

1980年、当時コードバンはランドセルで使われる丈夫な革と言うイメージが定着していましたが、「井戸辰夫」という凄腕の革職人が、有名人の結婚式で配られる引き出物をコードバンで作ったことがきっかけで、一躍注目を集める素材となりました。
その後、百貨店のバイヤーなどがコードバンの持つ特性や美しさに気づき始め、少しずつ認知されるようになる。
レーデルオガワと言う名前が世に出回り始めたのもこの時です。。

 

そして開業から20年、大学時代からの悲願だった、
「水のように透き通り、宝石のように輝くどこにもないコードバン」を作り出すことに成功、
アニリン染めの技法によってコードバンが持つ本来の美しさを、多くの人に提供できるようになったのです。

アニリン染めの開発により、工賃仕事に対して限界を感じていた時である。
1995年、染色依頼を受けていた会社が倒産したことがきっかけで、新喜皮革の新田常喜社長と出会い材料の直接取引交渉が開始する。
数か月後にはその許可が下り、染色工賃業から素材販売業へ転身し、レーデルオガワという理想の会社がついに完成しました。

 

そして晩年、ようやく思い通りのコードバンが作れるようになったと言い残し、2012年 小川三郎はこの世を去りました。
現在レーデルオガワは3代目社長が会社を引き継いでおり、コードバンが持つ革本来の輝きを皆様にお伝えできるよう、創業者の作った技術に日々磨きをかけています。

 

千葉県流山市にあった頃のレーデルオガワ工場
 

 

2代社長、3代社長に聞く。


小川三郎はどの様な人物だったか

  • とても寡黙な人間で、仕事を終え自宅に帰ってきても勉強の為ずっと本を読んでいた。
  • 休みの日も自宅の倉庫で研究にのめり込み、仕事一筋に人生を送っていた。
  • 息子がボーイスカウトに入隊したことがきっかけで本人も入隊、いつの間にハマってしまい仕事とボーイスカウトに命をささげる生活を送るようになり、千葉県の団委員長にまで昇り詰めてしまう。
  • 皮革の勉強をするため英語・ドイツ語を学生時代から学び、自身の研究記録はドイツ語で記載するほどだったが、海外旅行は嫌いだった。
  • 人当たりが良く気が回せる人間、一見穏やかに見えるが性格は直球で善し悪しがはっきりしている。特に仕事に関しては厳しく容赦がなかった
  • ボランティア精神が強く誰とでも物事を分かち合いたいタイプ。

 

コードバンについてよく語っていたこと

  • コードバンの研究は終わりがないから面白い
  • どこにもないコードバンを作って見せる
  • 革は息をしているのだから出来るだけ自然な環境で作らなきゃいけない

 

 

小川三郎 年表

  • 1929年 小川三郎 誕生
  • 1944年 京都帝国大学 農学部皮革製造学科に聴講生として入学
  • 1949年 大学退所後、井上教授に連れられ上京し、井上皮革、その他の会社で鞣しや染色を学ぶ
  • 1956年 株式会社東新の工場長取締役として就任
  • 1971年 独立し、小川染工所を設立
  • 1974年 火災の為東京の工場が全焼、流山に新工場を建てる
  • 1980年 井戸辰夫氏によりレーデルオガワが有名になる
  • 1990年 念願のアニリン染めコードバンが完成
  • 1996年 新喜皮革と直接取引開始
  • 2012年 小川三郎 他界
  • 2017年 柏市に新工場設立